2009年06月25日

日清戦争以後に獲得した海外領土

日清戦争以後に獲得した海外領土を全て失うこととなり、関東州租借地を中華民国(中国、以下同)に返還した。
台湾・澎湖諸島における実効支配を喪失し、中国による統治が開始された。
韓国併合以降の朝鮮半島の実効支配を喪失し、アメリカ・ソ連軍両軍による分割占領状態になった。これが1948年以降の南北分断、そして1950年の朝鮮戦争につながっていく。
委任統治後に併合を宣言していた南洋諸島の実効支配を喪失し、アメリカによる信託統治に移行した。
沖縄戦によりアメリカ軍に占領されていた沖縄島をはじめとする琉球諸島(大東島・沖大東島を含む)や先島諸島(尖閣諸島を含む)は日本の潜在的主権を維持したままアメリカ軍政下に入った。一時は奄美諸島もアメリカの施政権の下におかれたが、1972年までに全ての地域が日本に復帰した。
しかし沖縄返還後も、沖縄県をはじめとする日本各地にアメリカ軍基地が残り犯罪や騒音など多くの問題を起こしている。
小笠原諸島・火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島もアメリカの施政権下に入った。これらの地域では一部の欧米系住民以外の民間人居住を認めなかったが、1968年に日本に復帰した。
南樺太・千島列島の実効支配を喪失し、ソ連による統治が開始された。ただし、日本政府は法的にはこの地域の帰属を未確定と主張している。また、日本政府は千島列島南部の国後島・択捉島について、日露和親条約により平和的手段で領有が確定していた固有の領土と主張し、北海道の属島である歯舞群島・色丹島とともに支配を続けるソ連に対して返還を強く求めることになった(北方領土問題)。

1946年には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された。また日本国内だけでなく日本以外のアジア各地でも裁判が行われ多くが処刑された。
勝者が敗者を裁くという構図のもと、きちんとした証拠も弁護人も不十分なまま、杜撰な手続き、裁判中の度重なる通訳のミスや恣意的な裁判進行などにより処罰・処刑(偽証罪が無かったため私怨による密告だけを元に処刑されたものがほとんどとする意見もある)が行なわれたと言われ、批判されている。
その一方でこの裁判を全否定することは、戦後日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った平和主義を破壊するものとして、東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見もある。また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になっただろうとする説もある[41]。
この裁判で処刑された人々(特にA級戦犯)が、1978年10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀されることとなり、後にこの扱いを巡って議論を引き起こすことになる(靖国神社問題、A級戦犯合祀問題)。
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戦時賠償・抑留問題
日本の戦時賠償についての詳細は日本の戦争賠償と戦後補償を参照
対戦国や植民地下においた諸国との戦時賠償については、日本国との平和条約の締結以後、国家間での賠償が進められた。
満洲国瓦解時にソ連軍により約60万人もの日本軍将兵が捕虜となり、違法にソ連領土内で強制労働させられその多くが栄養失調や凍死で死亡した(シベリア抑留)。
この他中国残留孤児・残留婦人問題、在日アメリカ軍基地[42]等の問題が現在も残っている。
近隣諸国との関係
日本は「アジアの列強植民地の解放」という名目で、当時欧米列強諸国の植民地であったマレー半島やシンガポール、中国大陸などアジアのほぼ全域に進出、欧米列強諸国の植民地政府を廃止し占領、軍政下においた。また、占領地のなかのいくつかの地域については、日本に友好的な指導者を後押して独立させた。
しかし戦争当初の目的として資源確保のためにこれらの地を占領した日本にとってそれまでの宗主国の持っていたような資源・資産面など対植民地での優位な状態を保つことが出来ず、これらの地においては軍政の名において当初の目的以上に搾取することを余儀なくされ、各地に人的・資源的に過酷な状態を招いた。日本はこれらの国々に戦後賠償としての意味合いも含め、政府開発援助(ODA)を行うことになる。
なかでも、第二次世界大戦以前から統治・戦争状態が長かった後に戦勝国となる中華民国に代わり現在中国大陸を統治する中華人民共和国や、現在中華民国の統治下にある台湾を別として大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国といった当時、併合した国や保護下においた地域にその後できた三国との間に対しては遺恨を残すことになった。朝鮮民主主義人民共和国以外では戦時賠償問題が国際法上既に決着している一方で、これらの国の国内事情も絡んで、現在でも歴史認識などの問題 [43]で日本側が非難されることが多く、中華人民共和国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国では激しい反日教育が行われている。又、大韓民国では日本統治時代の親日派の子孫の財産を没収する親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法や日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法の制定など、反日的政策が実行されている。

2009年06月10日

裁判所は最高裁判所および下級裁判所からなる

すべて司法権は、裁判所に属する。裁判所は最高裁判所および下級裁判所からなる。特別裁判所の設置は禁じられている。最高裁判所長官は内閣の指名に基づき、天皇が任命する。その他の裁判官は、内閣が任命する。特に、下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿により、内閣が任命する。最高裁判所の裁判官は、任命後初めて行われる衆議院議員総選挙とその後10年ごとの衆議院議員総選挙において、国民審査を受ける。下級裁判所の裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。裁判所には、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則制定権がある(77条1項)。

裁判所は、法令審査権(違憲立法審査権、違憲審査権)を行使する(81条)。同条は、最高裁判所を「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」と規定するが、これは下級裁判所も法令審査権を行使しうることを示している(判例もそれを示している。「警察予備隊違憲訴訟」昭和27年10月8日大法廷判決昭和27年(マ)第23号日本国憲法に違反する行政処分取消訴訟。)。この法令審査権は、裁判所が裁判を行うにあたって適用する法令が違憲であるか否か判断する権限とされる(附随的違憲審査制)。ドイツの憲法裁判所やイタリア、オーストリア等の裁判所に見られる、具体的な事件から離れて抽象的にある法令が違憲であるか否か審査する権限(抽象的違憲審査制)は、日本国憲法に定められていない。
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財政・地方自治
第7章は財政に関する事項を定める。国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて行使される(財政国会中心主義、83条)。また、租税法律主義(84条)、内閣の予算案作成権(86条)、国の収入支出の決算と会計検査院に関する事項などが定められる(90条)。なお、皇室経済に関しては、皇室費用の予算計上(88条)は第7章に、皇室への財産譲り渡し、皇室の財産譲り受け、もしくは賜与に関する国会の議決は第1章の8条に定める。

第8章は地方自治に関する事項を定める。地方自治は、住民自治と団体自治をその本旨とする(92条)。地方公共団体には、その長(首長)と議会が置かれ、住民は首長と議員を直接選挙で選出する(93条)。地方公共団体は、その財産を管理し、行政を執行する権能を有するほか、法律の範囲内で条例を制定する権限を有する(94条)。また、一の地方公共団体のみに適用される特別法(地方自治特別法)は、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は制定することができない(95条)。

憲法保障
憲法保障とは、憲法秩序の存続や安定を保つことである。そのための規定・制度としては、まず憲法の最高法規性が挙げられる。98条は、明文で憲法の最高法規性を定める。この形式的な最高法規性の定めを、97条の最高法規性の実質的根拠と、96条の硬性憲法の定めが支える。また、99条は公務員に憲法尊重擁護義務を課している。さらに、権力分立制や違憲審査制も憲法保障を図る制度である。

憲法改正
憲法改正手続は、96条で定められている。まず、憲法改正案は、「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」により「国会」が発議する。この発議された憲法改正案を国民に提案し、国民の承認を経なければならない。この承認には、「特別の国民投票又は国会の定める選挙」の際に行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。この憲法改正案が、国民の承認を経た後、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

この改正手続を定める国民投票法(正式名称・日本国憲法の改正手続に関する法律)が、2007年5月14日、可決・成立した。

2009年06月06日

栽培鉢と鑑賞鉢

植木鉢は、植物の生理に合致することと、鉢そのものの美観という2つの条件を満たされることが重要である。これらのどちらかに重点を置くかにより、栽培用の鉢と装飾、展示用の鉢がある。ビニールポットや駄温鉢はもっともシンプルな栽培専用鉢であるが、一般的には両者を兼ねているものが多い。欧米では装飾専用の鉢が発達しており、鑑賞に適した状態になった植物を栽培用の鉢のまますっぽり収めるか、植え替えて使用する。また切り花を活けるためなどにも使用する汎用的なものであり(つまり排水孔がないものが多い)、美しく装飾されたものが多く、鉢そのものが観賞に堪えうる美的価値を持っている。このようなものを英語では"Jardiniere"または"Cache pot"と呼び、栽培用のものは"Planter"、"Flower pot"等と言うことが多いが、それほど厳密に使い分けられてはいない。高い台とセットになっていることもある。一方盆栽などの日本や中国の伝統的な園芸では、植物と鉢がよくなじんで一体化することが重要なので、このような飾り鉢はあまり使われないが、植物の美しさを引き立てつつ、しかもそれに見劣りしない風格と美を有する鉢であることが重要である。

朝顔型
西欧の庭園では、古くから修景用に大きな植木鉢が置かれることが多く、このようなものの多くは、口が朝顔状に開いた古代ギリシアの壷を模した形状をしており、植木鉢としてだけでなく花瓶としても使われる。室内用のものもあり、把手や台がついていることが多い。
桶型、筒型
栽培用植木鉢として最も一般的なものである。口に向かってやや広がっていく形のものが最も多く、また使いやすい。把手や脚がついているものもある。
瓶型、樽型
口がややすぼまった形状のもので、飾り鉢に多い。欧米では木樽や中国の金魚鉢、日本の火鉢や瓶を流用することもしばしばある。排水孔がなく、花瓶兼用のものも多い。
箱型
立方体、または左右か上下に長い直方体で、日本でプランターと呼ばれるものには長方体のものが多いが、英語では"Planter"と"Flower pot"に形状的区別はない。これも実用的で使いやすいもので、木製や金属製、プラスチック製のものも多い。よく道端で魚の発泡スチロール容器や木箱を転用しているものが見られる。上下に長い箱形のものとしては盆栽用の懸崖鉢に例が見られる。
楕円筒型
センターピースとして使われる豪華な飾り鉢に多い。台や脚、把手がついているものが多い。
皿型
高さよりも直径がはるかに大きいもので、「浅鉢」、更に平らなものは「平鉢」とも呼ばれる。盆栽鉢やシダ鉢、播種用の鉢(パン)に多い。縁、楕円、長方形、多角形と色々な形のものがある。脚のついているものも多い。
椀型、逆円錐型、角型
底が平らではないもので、高台がないものもあり、多くが釣り鉢に用いられる。また縦に半分に切った形のものがウォールポケットに用いられる。
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板型
広義の植木鉢の範疇に含まれるものと考えて、ヘゴなどから作った通気性のある板に、ランなどの着生植物を水苔等で植え付けるもの。垂直に使用するので、根付くまでは針金等で植物を固定する。また水平方向での利用として、特に草もの盆栽で、ほとんど平らな陶版や自然石の板に植え付けるものもある。
擬物型
動物や人間、貝、切り株、器具などの形状を模したもの、また人間が鉢を抱えたりしているデザインのものも近年は非常に多い。
不定型
石をそのままくり抜いたもの、流木、大型の貝殻などの自然物の流用、また不整形な陶器など。イワヒバの根塊や苔玉も広い意味で植木鉢と言える。
このほか幅、奥行きに対し高さの比率が大きい(見込が深い)鉢を「深鉢」と言う。

2009年04月23日

磐井の乱

磐井の乱(いわいのらん)とは、527年(継体21)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野(おうみのけな)率いるヤマト政権軍の進軍を筑紫君磐井(つくしのきみいわい)がはばみ、翌528年(継体22)11月、物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧された反乱または王権間の戦争。この反乱・戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る主導権争いがあったと見られている。

磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』逸文(「釈日本紀」巻13所引)や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』(「先代旧事本紀」巻10)にも簡潔な記録が残っている。

なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。

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真偽は定かでないが『日本書紀』に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおりである。

527年(継体21)6月3日、ヤマト政権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト政権軍の妨害を要請した。

磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト政権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・許勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。

528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト政権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト軍はその跡を見失った)と記されている。同年12月、磐井の子、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト政権へ献上し、死罪を免ぜられた。

乱後の529年3月、ヤマト政権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。

以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。また、『古事記』は、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(あらかい)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。

意義
磐井の乱が古代の重要事件として注目されるようになったのは、1950年代前半のことである。当時、林屋辰三郎・藤間生大・門脇禎二らは、磐井の乱について、ヤマト政権による朝鮮出兵が再三に渡ったため九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したものと位置づけた。

これに対し、『日本書紀』に記す磐井の乱は潤色されたものであり、実際は『古事記』に記す程度の小事件だったとする主張が、1960年代に入ってから坂本太郎・三品彰英らから出された。ただし、それらの主張は磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかったため、乱の意義に着目した研究が続けられ、磐井の乱を古代史の重要事件と位置づける考えが、多くの研究・検証の結果、通説となった。

1970年代半ばになると、継体期前後に国家形成が進展し、ヤマト政権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする研究が鬼頭清明・山尾幸久・吉田晶らによって相次いで発表された。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていたが、これらの研究は、古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト政権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったとした。

1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、統一的な中央政権の形成時期を5世紀後半までさかのぼらせる議論が有力となっていくと、磐井の乱の意義・位置づけもまた再検討が加えられるようになった。朝鮮半島との関係に着目し、ヤマト政権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったものとする意見、磐井の乱を継体王朝の動揺の表れとする意見、むしろ継体王朝による地方支配の強化とする意見など、磐井の乱に対する評価は必ずしも一致していない。

一方、考古学の立場からは、戦後、北部九州に見られる石製表飾(石人石馬)や装飾古墳などの分布・消長の状況が次第に判明するに従って、それらの九州広域文化圏を磐井の乱と関連づける議論がなされるようになっている。

異説・俗説
当時、北九州にはすでにヤマト政権とは別個の政権(倭国政権:九州王朝)があった。中国で言う倭王とは実は磐井王のことで、倭国政権すなわち九州王朝では独自の元号(九州年号)や外交主権等を持ち、むしろ倭国政権に対して反乱を起こしたのは外交権を独占しようとする継体(畿内ヤマト又は九州内の豪族)側だったとする説(九州王朝説)がある。 この説は、当時の日本においてヤマト政権が九州を含む統一王朝であったことを疑問視し、むしろヤマト政権よりも磐井政権の方が日本における有力政権だったと見なすものである。

2009年04月19日

北アメリカの変革と国民形成

アメリカ合衆国の19世紀は領土の拡大と国力の充実のために注がれた世紀だった。1803年のルイジアナ買収を経て、米英戦争で実利の少ない戦争をした後は、1823年にモンロー宣言を発して、ひたすら国内に目が注がれた。実際に諸外国と本格的に事を構えたのは1846年から1848年の米墨戦争のみであり、その次は世紀末の米西戦争ということになる。ただし、その間には南北戦争という内戦で痛みを味わった。米墨戦争の前の1845年にテキサス併合、1846年にオレゴン条約でイギリス領カナダとの国境確定と進み米墨戦争の結果(グアダルーペ・イダルゴ条約)でカリフォルニアまでを獲得し、北アメリカの大西洋から太平洋に繋がる、ほぼ今の形に近い巨大な国となった。

1848年に旧メキシコ領カリフォルニアで金鉱脈が発見されると、マニフェスト・デスティニーの旗印の下に、西部開拓時代が進行し、1867年にアラスカ購入、1869年には最初の大陸横断鉄道の開通、1890年にはフロンティアの消滅が宣言され、このころの第二次産業革命の進展と共に既にイギリスを抜いて経済大国となる準備が出来上がった。ただし、先住民族は強制移住や殲滅戦争によって居留地に押し込められるか、白人との同化を選ぶかの選択を余儀なくされた。

次のアメリカの目は海外にも向けられるようになった。1889年のパンアメリカ会議で南北アメリカ大陸の盟主となったアメリカは1898年にハワイを併合し、同じ年に起こった米西戦争ではプエルトリコ、グアム、フィリピンを支配下に収め、キューバを保護国とした。アメリカによる新帝国主義の始まりだった。

南北戦争
アメリカ合衆国の成長は順調に見えたが、国内には党派対立という大きな問題を抱えていた。建国当初は連邦党の主導で強い中央政府を作っていったが、米英戦争をきっかけとして連邦党が凋落し、替わって政権を取った民主共和党は州の権限を重んじる政策を推進し、一時期は「好感情の時代」と呼ばれる安定した政情を作り出した。1828年の大統領選挙で勝利したアンドリュー・ジャクソンはジャクソン流民主主義を推し進め、普通選挙を拡大していったが、これが大衆の政治参加を促したうえに、元々広い国土が更に拡大して地域の産業・経済格差が大きくなり、保護関税を巡る抗争などで南北の党派的対立が進んだ。

対立の争点になったのが奴隷制だった。既にイギリスやメキシコでは奴隷制を廃止しており、人権先進国であるはずのアメリカに奴隷制が残っていることに対して、北部の宗教者を中心として激しい奴隷制度廃止運動を引き起こすことになった。その契機となったのは、アメリカが西部に新たな領土を獲得したことだった。南部の諸州は奴隷労働によるプランテーション経営でその基盤が支えられており、それを守るために新しく合衆国に加盟する西部の州を、奴隷制を認める州(奴隷州)にすることで、議会(上院)での多数派を維持しようとした。北部では、それまで2大政党制を担ってきたホイッグ党に替わって奴隷制度廃止世論を背に受けた共和党が擡頭し、結党後わずか6年後の1860年アメリカ合衆国大統領選挙ではエイブラハム・リンカーンを押し立てて政権を掴んでしまった。1861年、サウスカロライナ州を初めとして南部の奴隷州は次々とアメリカ合衆国から脱退し、新たにアメリカ連合国を結成、南北戦争に突入した。
キャン ふかがわ プルート てっさく はだいろ バーモ ナローボ シーケン ぱぱいあ リナリア デッド トッカータ あまぎ セレクション チャート マグマ クサノオ レンチ ブッキ カネノナル フェース プロップ くけい テク ぶうぶう ゴロ シーソー おはじき ナップ タイダイ ワンセ タイピン マスコット ロード ワイマ ニチニ コカトリ ダナキ フリーラ ホンコン ミング ノーマ タミフ リトル バッテ スクエア カアト イソ次世 ミー スター


1865年、戦争は北部の勝利に終わり、多少の凝りは残ったもののアメリカ合衆国は分裂の危機を免れ、連邦政府の指導力が強化された。憲法が修正されて奴隷制は廃止され、アフリカ系アメリカ人の人権や参政権が保証された。戦後、荒廃した南部の再興(レコンストラクション)が進められ、北部では電気、鉄鋼、石油などの分野で大資本家が生まれ金ぴか時代を現出した。現在に続く共和党と民主党による2大政党制が確固たるものになったのはこの時期である。奴隷制は廃止されたものの人種的な偏見は強く残り、1世紀後の公民権運動まで人種分離・差別が続いたことはアメリカの汚点となった。またヨーロッパからの移民もこの時期に更に増えたが、南ヨーロッパや東ヨーロッパからの移民、あるいは日本、中国(清)などアジアからの移民も増えて人種差別感情が増長された。

2009年04月04日

大内山平吉

大内山平吉(おおうちやま へいきち、1926年(大正15年)6月19日 - 1985年(昭和60年)11月1日)は、大相撲の力士で最高位は大関。本名は大内平吉。身長6尺6寸7分(約203cm)、体重41貫(153.75kg)の巨体だった。

来歴 [編集]
茨城県那珂郡平磯町(現ひたちなか市)に漁師の長男として生まれ、よく家計を手伝っていた。潜水が大の得意で鮑を捕る腕は海女にも劣らなかった。身長は初めは平均よりやや高いといった程度だったが14歳頃から大きくなる。戦時中父親とともに海軍に徴用され対潜哨戒部隊に配属されたが、おかげで食うに困ることだけはなく大きく育ち、周囲の海軍軍人たちの口利きで1944年(昭和19年)に双葉山道場(後の時津風部屋)へ入門。

大内山を名乗りたかったが、これは皇居を意味するため、戦中は本名の大内で取った。師匠や本人いわく不敬罪を恐れたのだとか。1948年5月場所に十両に昇進してやっと大内山を名乗らせてもらえた。1949年1月場所に新入幕を果たした。

昭和30年3月場所、この場所大関とりとなる大内山は12勝2敗で千秋楽を迎える。対戦相手は前場所優勝しこの場所も絶好調、ただ1人1敗の横綱千代の山。当時横綱は4人いたのでわざわざ千秋楽に関脇と対戦させるまでもないが横綱鏡里と吉葉山、さらに当時ただ1人の大関三根山が休場、栃錦は皆勤したが千代の山とは同門で対戦できず優勝争いをおもしろくする意味もあってこの日になった。大内山は見事に勝って両者13勝2敗、決定戦での千代の山との再戦には負けて優勝はできなかったが場所後、当時大関争いといわれた若ノ花や松登に先行して大関になった。江戸時代の看板大関を別にすれば史上初の身長2mを超える大関の登場に当時「大きすぎる力士は出世しない」という悪い縁起を破ったといわれた。巨体ゆえに土俵四方の房に頭がぶつかるという椿事も起こし、土俵の釣り屋根の高さが引き上げられるきっかけにもなっている。

巨躯のわりにバランスの取れた体型で、小兵を苦手にするということもなく(むしろ小兵には強かった)大きな取り口から「揚子江」のあだ名をつけられ横綱昇進を期待された。膝の故障や末端肥大症(大きい人に比較的多く見られる奇病で特定の場所だけが大きくなり変形する、大内山は顎が伸びて噛み合わなくなり顔が変形した)に侵されて大関から落ち大成することはなかったが、同世代の栃錦や初代若乃花(当時若ノ花)とは数々の名勝負を演じた。

中でも新大関だった1955年(昭和30年)5月場所千秋楽、栃錦に対して立合いから猛烈な突っ張り、もろ差しを許せば閂に極め、ついには乾坤一擲の首投げでその巨体を舞わされた一番は、敗れたとはいえ後々まで語り草になった。栃錦にとっても、師匠春日野(元栃木山)から「優勝が決まった後の千秋楽で、よくあれだけの相撲を取った」といわれ、生涯唯一ほめられた相撲だったという。

後日談として栃錦は、「(大内山の突っ張りに)土俵で脳震盪を起こしたようになり、もう一突きでもされたらあぶないところだったが、何故か相手が組んできたので、一か八かの首投げを打った」と述懐しているが、大内山によると「栃関の顔がどんどん赤くなるのが判ったので、ああ可哀想だな、と思うとつい力が抜けてしまった」のだという。しかし、「考えてみれば千秋楽で、それからしばらく顔を合わせることもなかったんだ。もっとやればよかった」とも語っている。

また若乃花との対戦で投げ飛ばされた際に長い脚が行司を跳ね飛ばしてしまうという一幕もあった。この時跳ね飛ばされて勝負が決まる瞬間を見逃した行司は検査長(現在の正面審判長)藤嶌に「どちらが勝ちましたか」と確認をとったという。

1951年5月場所には痔で8日目のみ休場(不戦敗)しながら翌日から再出場、10日目に大関千代の山を降した。千代の山はこの場所優勝して横綱に昇進したので、休場した力士が再出場して優勝力士を破るという珍記録となった。また大関陥落後の1957年5月場所7日目に横綱栃錦を破り、元大関の金星獲得という記録を残した。

引退後は年寄錣山を襲名、後に立田山として勝負検査役を勤めたが座っても大きいので真後ろの客は土俵が見えなかったらしい。同じ理由で兄弟子の不動岩は検査役から異動したが彼はそのままだったらしい。師匠がなくなり後継者争いに敗れた立田川が現役の力士を1名も連れずに独立した際には立田川について行きようやく関取が誕生して喜んでいた所で亡くなった。

主な成績 [編集]
幕内在位:41場所(うち大関7場所、関脇8場所、小結2場所)
幕内通算成績:304勝256敗53休 勝率.543
大関通算成績:55勝40敗10休 勝率.579
優勝同点:1回(1955年3月場所)
三賞:殊勲賞1回(1955年3月場所)
金星:2個(千代の山(1952年3月場所)、栃錦(1957年5月場所))
各段優勝:幕下1回(1947年6月場所)

スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか

2009年03月20日

つばめ (列車)

つばめは、2004年(平成16年)3月以降、九州旅客鉄道(JR九州)が九州新幹線で新八代駅・新水俣駅・川内駅〜鹿児島中央駅間を運行している新幹線列車の愛称。

「つばめ」の名称はその起源を1930年(昭和5年)10月まで遡り、戦前・戦後を通じ国鉄を代表する特急列車の愛称とされてきた、伝統ある列車名である。この系譜は1975年(昭和50年)3月以降一時途絶していたが、1992年(平成4年)7月JR九州の鹿児島本線で復活した。その後2004年(平成16年)3月に、九州新幹線が愛称を引き継いだのが現在の特急「つばめ」である。ここでは過去に運行された「つばめ」号についても記載する。

在来線特急「リレーつばめ」 [編集]
エル特急「リレーつばめ」は、2004年(平成16年)3月より、九州新幹線暫定開業に合わせて運行が開始された。新八代駅新幹線ホームにて、新幹線「つばめ」号に接続し、同駅発着で熊本駅・博多駅まで鹿児島本線を経由して運行される在来線特別急行列車である。運行形態として、新幹線「つばめ」号と一体的に取り扱っており、列車運用面・料金面でも関連性が強いことから、本稿で一括して記述する。

基本的には、1992年以前の鹿児島本線エル特急「有明」の鹿児島中央駅(当時は西鹿児島駅)発着列車を改称した「つばめ」の残存区間での運行であるが、熊本駅以北では「有明」に対して一定の速達列車として存在する。なお、列車号数は運行順ではないが、これは下記にあるように「つばめ」との一体化を目指した為である。その為、「つばめ」では各駅停車タイプに接続する列車でも速達列車として運行されるものが数便ある。
インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア


特急「はと」 [編集]
特急「はと」は、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)6月から1975年(昭和50年)3月まで、「つばめ」とほぼ同区間を運行していた特急列車の愛称である。「つばめ」の姉妹列車的な存在であり関連性が深いことから、本項においては「はと」の愛称を使用した列車も併せて記述する。

2009年03月05日

油すまし(あぶらすまし)とは、熊本県に伝わる日本の妖怪の一種

初出となる昭和初期の郷土史家・浜田隆一の著書『天草島民俗誌』には油ずましの名称で記載されている。それによれば熊本の天草郡栖本村字河内(現・天草市)と下浦村(現・同)とを結ぶ草隅越という峠道を、老婆が孫を連れて通りながら「ここにゃ昔、油瓶さげたん出よらいたちゅぞ」と孫に話していると、「今もー出るーぞー」と言いながら油ずましが現れたという[1]。この峠は熊本県天草郡有明町(現・天草市)による調査の結果、有明町と天草郡栖本町(現・同)を繋ぐ草越峠だと判明しているが[2]、それ以外には伝承が少なく謎の妖怪である。

民俗学者・柳田國男の著書『妖怪談義』の「アブラスマシ」の項では、前述の『天草島民俗誌』を引用して「(油すましという)名の怪物」と記述しているが[3]、この「怪物」が何者でどのような外観なのかは一切記述されていない[4]。

妖怪漫画家・水木しげるによる妖怪画では、油すましは蓑を羽織った地蔵のような姿の妖怪として描かれているが[5]、これは水木の創作との説が強く、雑誌『怪』での京極奨励賞を受賞した評論によれば、文楽に用いられる「蟹首」という名称の人形の頭がモチーフとされる[6]。この水木による妖怪画が読者に浸透したことから[7]、戦後の妖怪関連の書籍では油すましはしばしば、全身に蓑を羽織り、油の入った瓶を持った人間の姿の妖怪とされ、峠に突如出現して通行人を驚かせるもので、正体は油を盗んだ罪人の亡霊などと記述されている[8]。これらの書籍では「すまし」の名はすまし顔であることが由来との記述もあるが[9]、前述の『妖怪談義』では「すまし」の名の由来は不明とされる[3]。

『妖怪談義』には「(油すましという)名の怪物」と記述しているのに対し、原典『天草島民俗誌』では「油瓶をさげた怪物が出た」ではなく「油瓶さげたん出よらいた」即ち「油瓶を下げたのが出た」とのみ述べられていること、また『妖怪談義』の「アブラスマシ」は「ツルベオトシ」「ヤカンヅル」「サガリ」といった頭上から物が落ちてくる怪異と並べて紹介されていることから、妖怪研究家・京極夏彦は油すましとは形のある妖怪ではなく、釣瓶落としなどと同様に油瓶が頭上から下がってくる怪異の可能性もあると述べている[4]。その後の京極の調査によれば、油すましの本来の姿は現在よく言われる「油瓶をさげた怪物・妖怪」とは大きく違っていたと判明したものの、京極の推測のように油瓶が下がってくる怪異かどうかの判明にはまだ至っていない[10]。

史跡
2004年には栖本町河内地区で「油すましどん」と呼ばれる石像の一部が発見された[2]。これは栖本町中の門・すべりみちという地名に安置されていたものが町道拡張工事で山中の私有地に移転されたもので[2]、首のない石像が両手を合せた姿をしている[11]。土地の伝承者によれば、かつては子供がこのすべりみちで遊んでいると「油すましどんが出る」と言って恐れたという[2]。地元では『天草島民俗誌』とは異なり「油すまし」の名で発音されているが、「油をしぼる」ことを現地では「油をすめる」と表現したらしく[2]、油絞りの職人が祀られて神になったものが、時を経て妖怪に変じたとの説もある[7]。
パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

登場作品
漫画
水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』では初期の作品には登場しないが、1986年以降は鬼太郎ほか多くの妖怪がすむゲゲゲの森の村長という設定で登場するようになる。詳細はゲゲゲの鬼太郎の登場人物#その他の仲間妖怪を参照。
水木しげるの漫画『悪魔くん』(少年マガジン版)では髷を結い、小豆とぎと組んで悪魔くん&メフィストと戦った。
立花晶の漫画『サディスティック・19』にレギュラーで登場、愛称はすまちゃん。言葉を語らず仕草で対話する。
小山田いくの漫画『すくらっぷ・ブック』では、主人公の一人・柏木晴がギャグ的に変化する姿としてしばしば登場していた。
漫画『パタリロ』で主人公のパタリロがよく間違えられる。

映画
大映映画の『妖怪シリーズ』に登場しており、特に二作目の『妖怪大戦争』では日本の妖怪の取り纏め役を務めているが、強い大阪弁を使っている。
上記の大映映画シリーズに登場した油すましのオマージュとして、化け地蔵という名の類似した外見を持つキャラクターが『さくや妖怪伝』に登場している。

特撮番組
『新諸国物語 笛吹童子』(1972年)のレギュラーに油すましの三太郎が登場する。
『怪奇大家族』(2004年)のエンディングに油すましのような妖怪がイラストで登場しており、本作に前述の「さくや妖怪伝」の妖怪が流用されたことを考えれば、化け地蔵の登場が予定されていたのかもしれないが、結局登場せず、真相は不明。

2009年02月14日

タユタマ -Kiss on my Deity-

広大な敷地を有し、明治時代から続く伝統ある名門校「創聖女学院」の流れを組んだ女子学部「フローレス」と、近年創設された男女共学の一般学部「スライトリー」から構成される「創聖学院」。その創聖学院のスライトリーに通う青年「泉戸裕理」は「八衢(やちまた)神社」の一人息子。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

友人の「河合アメリ」や「要三九郎」と共に学園生活を送っていた彼が三年生に上がる前の春休みのこと、拡張工事が行われていた学院のグラウンドで奇妙な文様が描かれた遺跡が発掘される。その文様は裕理の実家である「八衢神社」に伝わる神「太転依(たゆたい)」を表すものだった。遺跡を粗末に扱えば災いが訪れるのではないかと危惧した裕理であったが科学鑑定の結果、遺跡に学術的価値はないと判断され、工事はそのまま続行されることとなる。

災いが起こることを阻止するため裕理はアメリや三九郎と共に密かに夜の学院に忍び込み、神の魂を別の場所に移す儀式「御魂移し」を決行する。すると彼の前に「綺久羅美守毘売(きくらみかみのひめ)」と名乗る白い神様らしきものが現れ、この地に封じ込められた太転依の物語を語り始める。そこで「綺久羅美毘売」の化成(生まれ変わり)した謎の少女 を託される。その後、アメリの醜態により遺跡を破壊してしまい封印されていた「太転依」たちが解き放たれ、三強と呼ばれる「太転依」たちと対峙することに・・・。

泉戸 裕理(みと ゆうり)
声:なし / 日野聡
この物語の主人公。創聖学院一般学部(スライトリー)の男子生徒で、カリキュラムS受講生(最上級生)。実家が神社であるため、神道に関する知識が豊富。バイクや自動車などの機械いじりが好きで一級整備士や設計士に憧れているが、その趣味に打ち込み過ぎるあまり変人扱いされることもある。勉強もスポーツも人並みにこなすことができるが、嫌いな科目の授業では堂々と居眠りをしていたり、自宅にはアダルトDVDを大量に隠し持っていたりという一面もある。また、八衢の血統であるがために「退魔の霊能」という太転依に対し絶対的な力を持っている。その力を自覚していない裕理だったが、「ましろ」との約束を守るために「人間と太転依が共存できる世界」のために、太転依との戦いに身を投じていく…。
泉戸 ましろ(みと ましろ)
声:松田理沙 / 力丸乃りこ
身長:165cm / 誕生日:4月3日/ 血液型:O/ スリーサイズ:B 86(D) W 57 H 88 アメリ曰く、『ボンキュッボン』なスタイル。
始業式の日に裕理の前に現れた謎の少女。その正体は悠久の時を生きる霊的存在「太転依」であり、不思議な術を使うことができる。復活当時は幼女の姿だったが、のちに少女の姿へと一夜にして成長する。神通力を使いすぎると神気が足りなくなり、幼女に戻ることも。恋愛にとても積極的で裕理に出会ったその日から彼に猛烈なアタックをし、そのまま泉戸家に住み着くようになった。外見はほとんど人間と変わらないが狐のような耳と尻尾が付いている。やや世間知らずで知識が古く、最新の家電製品などには疎い。携帯電話は、電話機能とアドレス帳だけの老人にも安心用しか使えない(下手に触ってると電話が爆発する)。創聖学院女子学部(フローレス)カリキュラムS受講生(最上級生)。「ましろ」という名は裕理につけてもらったもので現在の姿に化成する以前は「綺久羅美守毘売(きくらみかみのひめ)」と言う太転依だった。以前の思想を引き継ぎ裕理と一緒に「人間と太転依が共存できる世界」を創ろうとしているらしいが…。
河合 アメリ(かわい - )
声:花野香 / 下田麻美
身長:159cm / 誕生日:8月9日/ 血液型:B/ スリーサイズ:B 83(C) W 58 H 85 本人曰く『ないすばでぃ』らしい。
裕理の幼馴染にしてクラスメイト。創聖学院一般学部(スライトリー)カリキュラムS受講生(最上級生)。スライトリーの理事である父(本人曰く『ダディ』)と、大手建設会社の会長である母(本人曰く『マミィ』)を持つお嬢様。昔から裕理とは親しく、家族ぐるみでの付き合いがあった。常時飴玉を携帯しており、これをゆみななどに分ける場面もある。気が強く、裕理をからかうのが好きなマイペース派。裕理に想いを寄せているが、ましろとは逆に恋愛には臆病であるため、友達以上の関係にはなっていない。今は悪友のような関係だが、昔は……。裕理に猛アタックをするましろのことをライバル視している。西洋人のような名前だがハーフではない。
小鳥遊 ゆみな(たかなし - )
声:青戸由羽 / 水橋かおり
身長:144.5cm / 誕生日:1月22日/ 血液型:A/ スリーサイズ:B 69(AA) W 54 H 73
本人は自分のスリーサイズについては「寸胴って言うの禁止です。」と言っている。
フローレスのカリキュラムC受講生。もとは裕福な「天見」家の生まれであったが実家の没落により神社である泉戸家に預けられる。その後、裕理と共に暮らすうち彼を兄と慕うようになった。しかし裕理の母の死によって、今度は「小鳥遊」家の養女となる。気が小さく、あがり性で誰かに見られているとすぐに失敗してしまう。絵を描くことが趣味で、料理や裁縫など一人でこつこつできる作業が得意。アメリとも仲がよく、またフローレスのミレディ(総代)である如月美冬に強く憧れている。なお、このキャラクターは本作の原画担当である萌木原ふみたけが所属している同人サークル「ZIP」が制作したアダルトゲーム『Purism×Egoist』(ピュリズム エゴイスト)[1]に登場する羽根の生えたアンドロイド「ゆみな」がモデルとなっている。
如月 美冬(きさらぎ みふゆ)
声:三咲里奈 / 伊藤静
身長:169cm / 誕生日:3月1日/ 血液型:AB/ スリーサイズ:B 79(B) W 59 H 84
ましろと同じフローレスの最上級生にしてミレディ。ミレディとはフローレスの中でも特に優秀な監督生らのリーダーであり、全校生徒と教師たちからの8割以上の支持を得なければ選出されない。名家である如月家に生まれ、幼い頃から厳しく育てられてきた。武芸全般に優れ、特に剣術に長けている。冷静沈着で思慮深く、厳格な性格だが、心の中では束縛から逃れたいと思っている(しかし、言動や態度ではそれに納得したふうをしている)。趣味は読書で特に「自由な恋愛」を扱ったものが気に入っており、また、自分を慕ってくれるゆみなのことも気にかけている。春休みの間に学院に忍び込んだ裕理たちに疑いのまなざしを向ける。

サブキャラクター
要 三九郎(かなめ さんくろう)
声:二朗 / 置鮎龍太郎
裕理やアメリと仲が良いスライトリーの男子生徒。関西弁を話し、趣味のバンド活動ではインディーズでCDデビューを果たしている。裕理やアメリと同じカリキュラムS受講生(最上級生)だが、学院を留年しており、2人より1つ年上。卒業後は音楽活動のため上京し、学院のある葦原町を離れる予定。
蘭ちゃん先生(らんちゃんせんせい)
声:中瀬ひな / 同左
スライトリーの教師で裕理、アメリ、三九郎の担任(チューター)。また日本文化学科日本史概論の准教授でもある。本名は蘭・エッジ=ウェムス、時折ましろから「ウェムス准教」と呼ばれることがある。極めて素の中瀬の声に近く、実際中瀬本人曰く、「ひなさんっぽくやってください」と担当者に言われたようだ。生徒との関係はかなりフランク。
河合 玄造(かわい げんぞう)
声:黒岩圭介 / 丹沢晃之
アメリの父で、スライトリー代表理事。裕導とは仲がよいが、よく厄介事を押し付けられ、アメリや妻だけではなく多嘉山理事にも頭の上がらない、何かと不運なキャラ。
多嘉山理事(たかやまりじ)
声:名和野恋 / 津野田なるみ
フローレスの理事であり、自身もフローレスの卒業生。学生時代では美冬と同じミレディを務めていたらしい。そのためフローレスが絶対と考えており、美冬にも視野が狭いと言われている。
泉戸 裕導(みと ゆうどう)
声:比留間京之介 / 若本規夫
裕理の父。八衢神社の神主なのだが、玄造とキャバクラへ行ったり、裕理に神社など継がなくてよいと言ったりとかなりアバウトだが、それは妻の真理(まり)に先立たれてかららしい。アメリにはユーディと呼ばれている。ましろやゆみな、玄造に冗談などを言いそれを1つの楽しみとしている。

制作スタッフ
原画:萌木原ふみたけ
シナリオ:史方千尋
音楽:大川茂伸
ムービー:神月社/えん (the Imaging Studio [Mju:z])
プロデューサー:かわうそ
制作:Lump of Sugar

主題歌・音楽
主題歌
ファーストオープニングテーマ『こんな春の空を』
作詞:白峰美津子 作曲:虹音 編曲:井上日徳 歌:霜月はるか 製作:TEAM Entertainment
セカンドオープニングテーマ『瞬間スプライン』
作詞/作曲:志倉千代丸 編曲:村上純 歌:kicco 製作:5pb.
エンディングテーマ『虹を見つけたような色で』
作詞:白峰美津子作曲:浅井裕子 編曲:井上日徳 歌:霜月はるか 製作:TEAM Entertainment

挿入歌
Cherry
作詞:Yummy 作曲:KAB 編曲:水野大輔 歌:kicco
以下四曲は初回特典のヴォーカルコレクションCDにのみ収録で一般販売は行わない。

Marital vows
作詞:涼森有羽子 作曲:大川茂伸 編曲:B.T.W 歌:泉戸ましろ (松田理沙)
ごーいんぐまいうぇい
作詞:オーロラ 作曲:大川茂伸 編曲:秋元直也 歌:河合アメリ (花野香)
Flower doll
作詞:青井天使 作曲:大川茂伸 編曲:越智健二 歌:小鳥遊ゆみな (青戸由羽)
Rainy Pain
作詞:AKKO 作曲:大川茂伸 編曲:Crystal☆GATE 歌:如月美冬 (三咲里奈)

タユタマ応援フェア
第一弾 ヒトメボレ人気投票
2007年10月1日から一ヶ月間行われたキャラクター人気投票。応募者全員に投票したキャラクターの創聖学院学生証が贈られた。結果は1位から順に、アメリ、ましろ、美冬、ゆみなであり、1位のアメリの壁紙が公開された。
第二弾 応援バナーキャンペーン
2008年3月7日から7月27日まで行われる応援バナーのリンク登録キャンペーン。抽選でタユタマ関係の景品が贈られた。
第三弾 タユタマ体験版配布会場ご来場ありがとうキャンペーン
東京、大阪のDreamParty2008春や、地方都市も含め、全国を巡った全国キャラバンで配布された体験版についている手紙に、タユタマ本体を買うと付いてくるシールを添付して送ると、第一弾の創生学園学生証の特製バージョンがもらえる。学生証のキャラクターは、発売後人気投票で1位になったましろ。キャンペーンの締め切りは、手紙が2008年7月末日必着で、2008年10月下旬以降に学生証が発送された。

2009年01月27日

F-100 スーパーセイバー

F-100はアメリカ合衆国のノースアメリカン社で開発された世界初の実用超音速戦闘機。愛称はスーパーセイバー(Super Sabre)。

F-100は、アメリカ空軍で1954年から1971年まで使われた世界初の実用超音速ジェット戦闘機である。愛称からもわかる通りF-86 セイバーに続く制空戦闘機として開発され、アメリカ戦闘機として初めて水平飛行で音速を超えることのできる戦闘機であった。しかし実際の運用面においては、戦闘爆撃機としての運用が多い機体であった。

開発・機体
F-86の後継となるべき超音速迎撃機の開発は1949年2月に開始された。開発当初は主翼後退角がF-86の35度から45度に変更されることから「セイバー45」との名称であった。1951年11月にアメリカ空軍とノースアメリカン社との間で試作機YF-100A・2機と量産機F-100A・203機の製造契約がむすばれた。最初のYF-100A試作機は1953年5月25日XJ57-P-7ターボジェットエンジンを装着して初飛行し、音速を突破した。1953年10月29日にYF-100Aは速度の世界記録 1,215 km/hを作った。

機首にインテイクを持ち、後退角を持つ主翼はやや高めの低翼配置となっており、水平尾翼よりも若干上の位置に配置されている。水平尾翼は全浮動式となっている。固定武装としてA型では機首下面に機銃2門を装備。空中給油能力は当初保持していなかったが、後に改修により受油プローブが増設された。なお、初期型は安定性が不足していたため、ロール中に事故が発生することが相次ぎ、1954年10月12日にジョージ・ウェルチが操縦中に急降下から回復不能となり、墜落事故が発生した。これの改善のため、1954年11月から1955年2月まで飛行停止措置を行い、垂直尾翼面積の27%拡大および主翼の延長などの改修が行われた。

各国での運用

アメリカ合衆国
量産型F-100Aは1953年後半に軍に引き渡され、1954年9月から運用を開始した。当時、MiG-19の存在を認識していなかったアメリカ合衆国では、F-100は世界で最も高性能の戦闘機であると思われていた。

F-100Aに続いてF-100C (1955年初飛行)と翼面積などを増加させた複座の戦闘爆撃機型F-100D (1956年)が製造された。
モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

F-100Dはベトナム戦争で最初は戦闘爆撃機として北爆に使用された。すぐ後にF-105が登場すると爆撃任務を譲る事となったが、F-105がMiG-17に撃墜され戦闘機失格とされる事件が起きたため、護衛戦闘機として使用された。だが結局F-100がMiG-17撃墜の成果を残せなかったのに対し、F-105は果敢にMiG-17に挑んで撃墜記録を残した。これは、F-100が当時既に空対空戦闘の必須装備となっていた捜索レーダーを持たなかったことが大きく影響している。F-100の照準器はF-86Aにも搭載されたAPG-30であり、これは有視界下で目視により対象を補足、レーダー正面に捉えることにより機銃やロケット弾の見越し角を表示するものであり、完全に時代遅れになっていた。

F-4が登場するに至って北爆から外されるが、南ベトナムにおいての近接航空支援任務に回され、1971年まで使用された。ただしこの任務に用いるには適した機体とは言えず、後にA-10が開発される理由のひとつともなっている。

なお、1956年から1968年までアメリカ空軍の曲技飛行隊・サンダーバーズでも使用されたほか、ゼロ距離発進の試験にも用いられた。

世界
アメリカ合衆国以外では、トルコ、フランス、デンマーク、台湾で使用された。また、なお、トルコのF-100C/D/FはF-4EやF-104G、F-102A、RF-84Fなどとともにキプロスを巡るギリシアとの戦争に投入されて対地攻撃に大きな力を発揮しているが、一方、1974年7月21日にはギリシア海軍のフレッチャー級駆逐艦の40mm対空砲による砲火で一度に4機が撃墜されるなど損害も小さくはなかった(この日はF-104G等他の航空機も損失を出しており、トルコにとっては厄日であった)。同国においてF-100は1990年代後半まで使用されていた。

日本
日本の航空自衛隊のF-86セイバーの後継機となる、次期戦闘機(F-X)の候補にもなり、レーダーを搭載する迎撃戦闘機型のF-100Jも開発された。結局不採用となったが、政治問題(第1次FX問題)により選定作業が白紙化したため、つなぎとして一度は候補から外れたF-100を80機、ライセンス生産するという案も具体化しかけた。しかしながら、岸信介首相に対する説明で「戦闘爆撃機」という単語を使ったことから「日本に爆撃機は要らない!」と一喝され、沙汰止みとなった。

後継型
ノースアメリカン社では発展型のYF-107も試作されたが、採用にはいたらなかった。

派生型
YF-100A:試作機。2機製造。XJ57-P-7エンジン搭載。
F-100A:初期量産型。203機製造。20mmM39機銃2門。
RF-100A:偵察機型。A型より4機改修。
F-100B:J75エンジン搭載。YF-107に名称変更。
F-100C:戦闘爆撃機型。ハードポイントが6ヶ所に増加、機銃4門、燃料タンク増量。476機製造。J57-P-21エンジン搭載。
TF-100C:練習機型。C型より1機1956年改修。
F-100D:戦闘爆撃機型。主翼の改良(境界層板設置)など。1,274機製造。
F-100F:複座練習機型。339機製造。7機が改修を受け、ワイルド・ウィーゼルとしてSEAD任務に使用。
F-100J
DF-100F
NF-100F
TF-100F

仕様
Quest for Performance[2]

諸元
乗員: 1
全長: 15.2 m (50 ft)
全高: 4.95 m (16 ft 2? in)
翼幅: 11.81 m (38 ft 9 in)
翼面積: 37 m2 (400 ft2)
空虚重量: 9,500 kg (21,000 lb)
運用時重量: 13,085 kg (28,847 lb)
最大離陸重量: 15,800 kg (34,832 lb)
動力: P&W J57-P-21/21A アフターバーナー付ターボジェット
ドライ推力: 45 kN (10,200 lbf) × 1
アフターバーナー使用時推力: 71 kN (16,000 lbf) × 1
性能
最大速度: 1,390 km/h (750 knots, 864 mph)
航続距離: 3,210 km (1,733 nm, 1,995 mi)
実用上昇限度: 15,000 m (50,000 ft)
上昇率: 114 m/s (22,400 ft/min)
翼面荷重: 352 kg/m2 (72.1 lb/ft2)
推力重量比: 0.55
武装
固定武装: M39 20 mm機関砲 × 4
ミサイル
AIM-9 サイドワインダー × 4
AGM-12 ブルパップ
爆弾: 3,190 kg (7,040 lb)
通常爆弾
核爆弾 (Mk 7, Mk 28, Mk 43, Mk 57, Mk 61)
使用されている単位の解説はウィキプロジェクト 航空/物理単位をご覧ください。

比較対象
MiG-19:世界で二番目の超音速戦闘機で、F-100とは対照的な高機動力を持った格闘戦闘機として発展したが、兵器搭載量や航続距離は小さく、F-100のような戦闘爆撃機としては向かなかった。